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戸塚パルソ通信@メール 第62号

戸塚宿を行く

vol.026-2

駅近なのに深山の荘厳さを残す。高松寺 2

高松寺の縁起は、「髙松三郎頼重を開基として、龍甫珠公が文禄2年(1593)に開山創建した」となっています。

高松頼重は、鎌倉末〜南北朝の武将で、土岐氏の一族、舟木氏の出身とされます。建武の新政の功績により讃岐の守護に任じられ、高松城を築城したことから「高松頼重」と名乗ります。

足利尊氏の離反により、南北朝の幕が切って落とされると、高松頼重は南朝・後醍醐天皇方の、四国の守りとして奮戦しますが、足利方の細川定禅の攻撃を受けて、高松城は落城します。

高松一族は南北朝、室町の動乱をくぐり抜け、戦国時代になって、子孫の高松頼邑が高松城を復興させるに至ります。が、長宗我部氏の攻撃を受けて玉砕。高松城は再び廃城となります。のちに高松に封じられた生駒親正が、現在の高松に新たに城を築いたことで、元の高松の地は「古高松」、元の高松城は喜岡城と呼ばれるようになり、跡地には喜岡寺が建立されます。

第1の謎

高松城落城から、高松寺開山までの時間。
高松頼重の高松城が撃破されたのが建武2年(1335)。 龍甫珠公が開山創建したのが文禄2年(1593)。ざっと260年という時間が経っています。子孫が、先祖を顕彰して開基に据えることは考えられるとしても、出身はおそらく美濃、その後の根拠地は四国である高松頼重の子孫が、戸塚とどんな縁があったのでしょうか。縁があったとしても、高松頼邑はじめとする高松一族が滅亡したのが天正13年(1585)。わずか8年前です。とても一つの寺を建てるような余裕があるとは思えないのですが、、、、

第2の謎

中興と開山が逆?
高松寺には横浜市指定有形文化財の雲岫和尚像が所蔵されています。寺伝によれば雲岫和尚は、高松寺の中興6世になるとのことですが、この方は天文21年(1552)に示寂(逝去)とされています。開山した文禄2年より40年も前に中興の祖がいることになります。ここに記録の混乱があると考えて良いでしょう。

もう一人いた?高松頼重

このような記録の混乱は、おそらく明治の廃仏毀釈で起こったものと考えられます。多くの由緒あるお寺から貴重な古文献が、廃仏毀釈の嵐によって散逸したことは事実です。

いろいろ調べていますと、確実に戸塚を通過し、そして高松寺を庇護する動機のある「高松頼重」がいることに気がつきました。水戸黄門こと徳川光圀の異母兄である、松平頼重です。
松平頼重は、徳川頼房の長男として産まれながら、父に疎まれ、嫡子の座を光圀に譲った人物。16歳でようやく頼房の子であることが公認され、寛永19年(1642)に讃岐高松12万石に封じられたことで、高松松平家を創業します。水戸光圀のように、領地を冠して「高松頼重」の別名を持ったのです。

常陸から高松へ向かう途中、高松頼重は、絶対に戸塚を通過しています。

そして、東照権現・家康下賜の阿弥陀像が安置される清源院が目の前にある、高松寺を庇護すれば、諸大名に副将軍たる水戸家の出自としての威勢を示すことができます。意義あることと思えないでしょうか。

高松寺(高松庵)自体は、雲岫和尚が中興6世ということを事実とするなら、1300年代中盤・南北朝には存在していたはずです。 「これから高松へ向かう」という頼重が、その名に縁を感じたとしても不思議では無いでしょう。

うがってみれば、明治維新の混乱の時、「高松頼重が徳川家の重鎮だとまずい、南朝の忠臣ということにしよう」と誰か言ったのかもしれません。

もちろん、それは歴史の闇の向こうのことであり、単なる空想に過ぎません。

○高松寺

長後街道から見る高松寺

高松寺公式ホームページ

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