戸塚パルソ通信@メール 第163号
戸塚宿を行く(人物伝)
vol083
戸塚に眠る?英雄皇子王子神社と護良親王
大塔宮護良親王
■生没年:延慶元年〈1308年〉生 - 建武2年〈1335年8月12日〉没
■天台座主・征夷大将軍
■南北朝を駆けた”英雄皇子”
大塔宮護良親王は、後醍醐天皇の皇子。第3皇子とされますが、第1王子であったという説もあります。
御名の読み方は、現在は「おおとうのみや もりよし」とされていますが、「だいとうのみや もりなが」という呼び方も膾炙されています。現在は「大地震(おおじしん)」「大津波(おおつなみ)」などのように、「大〜〜」という表現の時は「おお」とすると決められています。ただ、宮名は、天台座主であったことなどから、寺院の大塔に由来すると考えると読みは「だいとう」となります。
もりよし か もりなが かは、決定的な証拠はありません。「よし」が同時代的には普通の読み方であるとする一般論によるものです。
「もりなが」読みが主流だったのは昭和時代で、時の皇后のお名前が良子と書いて「ながこ」と読まれたことに因んでいると言われています。
■鎌倉幕府討幕に活躍
大塔宮護良親王は、幼くして僧となります。英邁の誉高く、二十歳ごろには比叡山のトップである天台座主になります。
元弘元年(1331)に父・後醍醐天皇が討幕の兵を挙げると、これに呼応。楠木正成らと協力して反幕の戦いに参加します。
後醍醐天皇は、一旦は幕府に敗れ、隠岐島へ流罪となりますが、その間も赤坂城・千早城などで戦闘を続け、不在の後醍醐天皇に代わって反幕勢力を鼓舞します。
その後、再起した後醍醐天皇と共に討幕戦を展開、呼応した足利尊氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府・討幕はついに成るのです。
■征夷大将軍就任から、悲劇の最期
建武の新政が始まると、大塔宮護良親王は征夷大将軍の座につきます。
これは、足利尊氏の野望を見抜き、先手を打ってその地位を手に入れたとも言われますが、逆に足利方に「大塔宮に謀反の兆しあり」と讒言を受けます。
後醍醐天皇は足利尊氏方に立ち、護良親王を捕縛。鎌倉に流罪とします。
鎌倉で土牢に押し込められた護良親王は、やがて北条時行を旗頭とする中先代の乱のどさくさに紛れて足利直義が放った刺客により暗殺され、その生涯を閉じます。
■戸塚と護良親王
打ち取られたとされる護良親王のその後は諸説あり、謎に包まれています。
その中の一つが、護良親王の首を守った侍女が、斎藤氏を頼って戸塚の地に訪れ、彼らの庇護のもと、埋葬したのが、今の王子神社の地であるというものです。
戸塚の有力者の一人であった益田氏は、護良親王が赦された時に、京まで守備する役目をいただいていたと言います。護良親王の危急に駆けつけられなかったことを悔やんで、”英雄皇子”の栄光の地である吉野のモチノキを取り寄せ、お世話をすることで、供養にしたという伝説が残っています。
■王子神社

建武中興(建武の新政)の文字が刻まれています。

護良親王の首が安置されたと言われる切り株
■王子神社












