戸塚宿を行く

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戸塚パルソ通信@メール

戸塚宿を行く

Vol.003

謎に包まれた戸塚の玄関口大橋

○江戸時代の戸塚の風景といえば真っ先に「こめやと吉田大橋」が浮かぶ方もいらっしゃるのではないでしょうか。

戸塚の象徴ともいえるこの橋ですが、ちょっと調べてみただけでは「吉田大橋という橋があり、たもとにはこめやという茶店があった」ということぐらいしかわかりません。
 (戸塚区役所「タイムトンネル」)
他の情報源に載っているのもほとんどこれにつきます。
うーん、、わからない!

という訳で、改めて吉田大橋を訪ねてみました。

さっそく有名なあの絵とほぼ同じ構図でパチリ。

わらぶき屋根の家が立ち並んでいたあたりはおしゃれな家やマンションになっています。
この橋の街灯は大名行列の「毛槍」をイメージして、細く長く天に向かって伸びていてカッコイイ!。
橋を渡ってしばらく東京方面に向かうと「江戸見附の碑」というのが建っていました。

宿場というのは見附から見附の間をいうそうで、ここが江戸時代の戸塚宿の端っこです。 ちょっと脱線して、さらに足を運ぶと舞岡川にかかる五太夫橋。豊臣秀吉に配置換えされ、江戸にむかう徳川家康を、滅亡した北条氏の元家臣、五太夫が出迎えたと説明する案内板と石碑が建っています。

取材したのは、柏尾川を吹き抜ける風が気持ちよくなってきた、とある春の日。 いい天気と柏尾川の風景に大満足ですが、、、、 結局、現地に行っても、何か特別なことが分かったわけではありません。
まずい。
これでは記事にならない。

ということで、戸塚の歴史に詳しい戸塚見知楽会の中川二與氏にお話を伺いました。

すると、いきなり衝撃の事実が。

「実は、吉田大橋という橋はないんですよ」

ええ?でも、信号機にちゃんと地名が書いてありますよ。

「吉田大橋」のことを、戸塚の歴史に詳しい戸塚見知楽会の中川二與氏にお話を伺ったところ、いきなり衝撃の事実。
「吉田大橋という橋はないんですよ」

しかし、信号機には「吉田大橋」と地名が書いてありますが。。。

「あれは(国道なので管轄の)国交省がつけた表示です。必ずしも正確な地名や施設名という訳ではないんです。あそこだけではなく、信号機の表示が、正式な地名と違うことは多いですよ」

では、「あの橋」の本当の名前は何というんでしょう。
「大橋です」

そうです。橋の欄干にその橋の名前が掘り込まれています。そこには確かに「大橋」としか書いてありません。
江戸時代の東海道宿村大概帳という資料の中にも、「大橋」と書かれていて、郷土史家の方々の間では正式な呼称として使われているんだそうです。

「ですが、吉田という名称が全く使われていなかった訳でもないようです。有名な忠臣蔵のお軽勘平の道行の中に 「まだ花寒き春風に、柳の都あとに見て、『気もとつかはと吉田橋』」というセリフがあります。「戸塚は」と「とつかは」の掛詞で、『戸塚といえば吉田橋がある』と『いそいで吉田橋を渡ろうと気が急く』という二つの意味があります。なぜここで吉田橋といわれているのかは定かでありません。『気もとつかはおおはし』だと語呂が悪いので、そのためかもしれません。一方で、矢部大橋と呼ぶケースもあります。これらは例外と考えた方がいいと思います」

では、正式名称が分かったところで、早速「大橋」の歴史などをお伺いしたいのですが。
「それがほとんど分かっていないんですよ。いつごろからあるのか、誰が架けたのか、など、資料がありません。」
でも、大橋というくらいですから、それなりの地位のある人が掛けた橋なのでは? 場所的にも、東海道とかまくら道、大山道も含めたターミナルですから軍事的とか政治的とかで何か意味のある橋だったんじゃないかと思うんですが。

「いや、大橋というのは、単に『近隣では大きい橋』くらいの意味で、それ以上のことはありません。戸塚の大橋は、東海道に架かっている橋の中で、神奈川県内で上から10番目くらいの規模ですね」

10番目、、、、微妙ですね。。。

「それに江戸時代、重要な河川には橋が架かっていません。このあたりだと多摩川、相模川、酒匂川ですね。それらは国境など、重要な境界線です。逆に言えば、それ以外の川には、あまり大きな意味はないと思います。」

でも、そんな微妙な橋が、なぜ戸塚の代表的な景色として定着したんでしょうか。
「それは、有名な歌川広重の浮世絵のせいです」
歌川広重は、元々描いていた役者絵や美人画ではあまりぱっとせず、東海道五十三次で風景画を描くことで大ブレイクを果たしました。
有名な大橋の絵は、歌川広重の東海道五十三次戸塚宿の、記念すべき第一弾だったのです。

「大橋が、戸塚の代表的な景色として定着したのは、歌川広重の浮世絵のせい」 浮世絵にまつわる驚きのエピソードとは。

歌川広重の東海道五十三次戸塚宿は、あまりにも売れすぎたので、版木が擦り切れてしまい、改めて原画を描きなおしたというエピソードがあります。
その後も様々な広重の五十三次が発行され、20数種類ものパターンが確認されています。

順番としては、有名な橋だから題材に取り上げられたののではなく、広重が取り上げたので有名になったのが事実だとか。
思いがけず急に有名になったので、それ以前はほとんど資料として残されていなかったということのようです。

ところで、広重にはある疑惑があります。
「歌川広重は実際には東海道を旅していない」説です。
その疑惑の傍証として、戸塚宿の絵があげられることがあります。
実際の道標には「かまくらみち」と書かれているのに、広重の作品では「かまくら道」となっています。
これは実物を見ていない証拠だ、というのですが。。。

「ナンセンスなんじゃないでしょうか」
広重の大橋の絵が、版木を作り直したことに触れましたが、このとき、広重は作品にいろいろと変更を加えています。
旅人が馬から降りていたシーンを乗るシーンに変えたり、「こめや」に扉をつけたりしています。
芸術家として、単純に復刻するのではなく、いろいろと改善してみたかったのではないかと推定する中川さん。
そして指摘するのが、背景のわらぶき屋根の角度です。

「版木の作り直しなのですから、これは同じ家です。建て替えた訳ではない。最初の絵はわらぶき屋根の角度が鋭く、次の絵は角度が緩い。これはほかの絵でも同様の傾向があり、画家としての作風の変化といえます。広重は画家であって、五十三次の浮世絵は、学術調査ではありません。細部にいたるまでまったく誤りのない、精密なものを描く必要はありません。おそらくは正確さよりも芸術性を優先する。『かまくら道』の方が、構図としてしっくりくると思えば、そう変えるでしょう。そこをとらえて、実際に行ったとか行っていないとかは判断できません。」

今、その物議をかもした道標は、近くの妙秀寺の境内に移築されています。 当時の道標は旅人の安全を祈って、多くが名号や題目を彫り込んでいたといいます。 大橋たもとのかまくらみちの道標には南無妙法蓮華経と、題目が彫り込まれていました。 改修の際、撤去された道標が、その縁で、日蓮宗の同寺に移されたのではないかと推定されます。 傷みが目立つ道標ですが、江戸時代の人々が目にしていたそれが、現代の自分の目の前にあることに不思議な感覚を覚えるのでした。


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