戸塚パルソ通信@メール 第13号
戸塚宿を行く
vol.006
戸塚と歌舞伎道行旅路の花聟1
江戸時代に宿場町として急速に拓けた戸塚宿。
東海道の有力宿場として、また、江戸の庶民にとっては大山参りや江の島参りなどの比較的気軽なレジャーの基地として知られるようになります。
その為か、「戸塚」は江戸時代、浮世絵や黄表紙など、庶民の娯楽の中によく見かけられるようになります。
その中から、戸塚に関わる歌舞伎を取り上げます。
○道行旅路の花聟
歌舞伎や浄瑠璃に興味がない人でも「お軽勘平」という名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。 仮名手本忠臣蔵の中、武士道に邁進できずに悲劇の最期を遂げる早野勘平と恋人・妻のお軽のエピソードです。忠義と武士道の四十七士と好対照をなすことから、庶民の思い入れも深く、美男美女という設定も相まって、彼らの人気は高まりました。
塩冶判官に仕えていた早野勘平は、役目の合間に恋人・お軽と逢い引きをしたばかりに、足利館松の間の刃傷に間に合わないという失態を演じます。 面目をなくした勘平は、お軽とともに出奔します。 お軽の故郷山城国山崎に向かう途中、戸塚の大坂と見られる「戸塚山中」での顛末を描いたのが「道行き旅路の花婿」です。
ちなみに塩冶判官とは、史実の赤穂事件における浅野内匠頭のこと。仮名手本忠臣蔵は、室町時代の設定になっていて、敵役は高師直です。もちろん、これは吉良上野介です。足利館松の間が、江戸城松の廊下にあたります。
当時の芸能は、幕府批判につながりかねない「現代劇(世相風刺)」が禁じられていた為、明らかに時事ネタとわかる演目も、時代や場所を移して、歴史劇として上演するのが普通でした。
その為、江戸城にあたる足利館は、鎌倉鶴岡八幡宮のあたりにあるという設定です。
そこに出仕していたお軽勘平の両名なのですが、「鎌倉」を出奔して山城国(京都)を目指すにもかかわらず「戸塚」を通ります。
普通に考えれば、わざわざ戸塚を通らずに、七里ケ浜〜腰越から茅ヶ崎に抜け、東海道を西上しそうなものです。リアリズムからいうと不自然に思える経路ですが、それを指摘するのは野暮と言うもの。
これは、「足利館」は鎌倉ではなく、江戸、すなわち江戸城松の廊下なのだという、観客のコンセンサスに基づいた経路なのだと思われます。
当時の観客は、一日で江戸から戸塚にゆくことの困難さを知っています。女連れなら尚のこと。さらに、戸塚の坂は、当時、箱根に次ぐ東海道の難所として知られていました。出奔の必死さを表現し、加えてやがて二人に訪れる過酷な未来を暗示するにはもってこいの舞台装置なのです。
現在の、戸塚の大坂は長くなだらかに続きます。確かに徒歩で登るのは大変ではありますが、箱根並みの難所といわれると違和感があります。
それは明治以降の土木工事のお陰。
いまでもかなり急な、自動車では上り下りできないような脇道が散見されますが、江戸時代はほぼ全路がそんな感じだった様です。
そのかわり頂上に立ったときの達成感、充足感は大きなものだったでしょう。高い建物の多くなった今ですら、大坂上からの眺めは格別です。
お軽と勘平は、その絶景をバックに口説きのシーンと大立ち回りをみせて、観客を魅了します。
「戸塚山中」で何が起こるのか。見せ場は次号!
主君の一大事に居合わせることが出来なかった早野勘平とお軽の二人は鎌倉を出奔し、お軽の故郷、京都山崎へ向かう途中、戸塚山中を通ります。
○道行旅路の花聟2
理由はどうあれ、恋人である勘平と二人きりで旅が出来ることにウキウキするお軽。
「泊まった旅籠の唐紙(ふすま)の模様が(仲のよい夫婦の象徴である)オシドリだった。自分たちのようで嬉しい」という無邪気なセリフが口をつきます。
しかし、「武士にあるまじき失態をしてしまった」と嘆き、旅慣れぬお軽を心配する勘平は落ち込むばかり。
「とっさに出奔して来てしまったが、これでは恥の上塗り、ここで死んでお詫びをするから、後の弔いを頼む」と、自害しようとします。
「何をいうのです」と、止めるお軽。
「あなたが死ねば、私が生きていられるはずも無い。そうしたら、世間はただの男女の心中としか受け取ってくれないだろうから、あなたの自害は、主君へのお詫びにも何にもならない。生きて、恥をそそぐ機会を待ちましょう。それまで、私が針仕事でも機織りでもして、あなたを養います」
とまで言います。
この「口説き」のシーン。
古今東西変わらない男女の機微をきれいに表わしています。観客は自分たちにも身に覚えがあるとして、くすぐったい気持ちで見るのでしょう。
と、そこへ何故か現れるのが、高師直の家臣の鷺坂伴内。
「おい、勘平」と、無駄に強がるセリフはモブキャラ度100%です。
「オマエの主人(塩冶判官=浅野内匠頭)はオレ様のご主人(高師直=吉良上野介)にちょっかい出しておきながら、何も出来ずに、あげく切腹とは様は無い」
と、さんざん塩冶判官と勘平を侮辱し、「花四天」と呼ばれる部下たちを勘平にけしかけます。
ところが勘平は、あっという間に花四天を蹴散らし、鷺坂伴内も切り捨てようとしますが、「無駄な殺生は罪を重ねるだけ」と、お軽に止められ、命拾いをした判内は、這々の体で逃げてゆきます。
その際の、勘平と伴内たちの立ち回りが、美しく、かつ滑稽な振り付けで見せられます。
花四天は武器の代わりに桜の花の枝を持っています。ですがそれは「花ではなくて武器です」という約束事になっています。その約束事のもと、舞台は美しく桜の花が舞い踊る姿になっています。リアリズムでは表現できない、美がそこにあるのです。
鷺坂伴内は、いわゆる三枚目、道化役の実力が問われる役どころです。また、わざわざこのモブキャラを大看板が演じることで、観客にサービスすることもあるそうです。短い時間でキチンとお軽勘平の主役を引き立てるのは、並の演技力では難しいということなのかもしれません。
鷺坂伴内の登場は、いささか唐突です。
夜陰に乗じて東海道を旅している、お軽勘平をわざわざ部下を引き連れて、嘲笑する為だけにやって来たというのは相当無理があります。
実は、このお軽勘平と鷺坂伴内のやり取りは、元々は、足利館松の間(松の廊下)のすぐ外という設定だったのです。
足利館の変事を知り、中へ入れろと騒ぐ早野勘平に「主人が主人なら、家臣も家臣」と判内が嘲笑して一悶着というシーンを、わざわざ戸塚の大坂上でのエピソードに変えた為に、唐突なストーリーになってしまったということです。
ストーリーが破綻する危険を冒しても、観客を喜ばせるために、舞台として選ばれた戸塚の大坂上。江戸の庶民にとって憧れの地だったといえるのかもしれません。
次回の「戸塚と歌舞伎」は「小栗判官照手姫」です。
スペクタクル感あふれる活劇として、江戸時代から人気を誇る「小栗もの」。小栗判官と照手姫(照天姫とも)にまつわるストーリーはいくつものバージョンを持ち、古典芸能のみならず、前衛演劇のテーマにも取り上げられています。
そんな「小栗もの」のストーリーの冒頭を飾るのが、戸塚です。
○小栗判官照手姫
「小栗もの」の大筋のストーリーは次のようなものです。
常陸の国結城の城主であった小栗判官(小栗助重または満重)が戦に敗れ、落ち延びます。
その途中、照手姫を見初めますが、謀殺されてしまい、いったんは地獄に堕ちてしまいます。
なんとか、閻魔大王のはからいによって蘇生したものの、「ゾンビ」のような風体となってしまいます。
そんな小栗判官ですが、高僧の導きによって熊野に湯治にゆくことが出来ると、霊験によって見事に復活。
一方の照手姫にも様々な苦難が訪れますが、それを乗り越え、2人は再会します。
小栗判官は武勇を認められて領地を回復し、悪人も成敗して大団円を迎える、というものです。
さて、東海道を落ち延びて来た小栗判官が一夜の宿を頼むところが、現在の戸塚区俣野町のあたりといわれています。戸塚宿と藤沢宿の中間地点で、おそらく江戸時代以前は通る人も稀な山中だったはず。
横浜市の市民の森として貴重な自然が残る「ウィトリッヒの森」は、悪役「横山大膳」が、小栗判官を暴れ馬に乗せ、落馬させて亡き者にしようと企んだ山ではないかという説もあります。
「ウィトリッヒの森」は、現代の整備された状態でも、昼尚暗い。当時はそれが、ずっと広く深く続いていたと考えると、悪役(山賊)の根城という設定がされたこともうなづけます。
ちなみに、「横山大膳」の屋敷があったとされている東俣野地区ですが、今では、区画整理により、広く穏やかな農地が続いています。
東俣野地区から境川をわたると藤沢市になります。藤沢市の西俣野地区にある「花応院」というお寺には、小栗判官照手姫縁起絵巻という絵巻物が遺されており、毎年1月と8月にご開帳されます。同院は、小栗ものと縁の深い、閻魔大王も祀られているということです。