戸塚パルソ通信@メール 第135号
戸塚宿を行く(歴史探訪)
vol065-1
宿場町戸塚の中枢問屋場(1)
■問屋場
今回は、宿場町の中枢機関「問屋場」を取り上げます。
(各地の問屋場の様子)
■問屋場とは
(馬で東海道をゆく様子)
「問屋」と書いて、現代では「とんや」と読み、卸売業のことを多く指します。
江戸時代の宿場町においては、正式には「といや」と読み、宿場町の最高責任者のこと。その公務を行う場所のことを問屋場(といやば)と呼びました。
宿場町には、幕府から街道の人流物流に関するさまざまな利権が与えられるのと引き換えに、多くの義務が課せられていました。
そのうちの一つが「伝馬・人足の継立て」で、問屋場は、主にその業務を行っていました。
公務の移動に関わる馬や作業員の手配をする業務です。大名行列や、幕府と地方の連絡をする役人の便宜を図っていました。
これらは一種の税ですので、宿場町の負担になります。江戸幕府が安定して、往来の交通量が増えると、これらの負担を宿場だけでは賄い切れなくなり、近隣にも「助郷(すけごう)」と呼ばれる賦役が課されるようになります。
いわば宿場町の手伝いを強制的に命令したわけですが、それらの助郷の管理も問屋場が行いました。
戸塚宿の助郷を課された「助郷村」は、近隣の岡津や中田にとどまらず、鎌倉郡36ヶ村、高座郡21ヶ村に及んだと言います。
戸塚宿には実に3ヶ所の問屋場があり、その業務量の多さ、通過する人や物の多さが窺い知れます。毎月1日~4日を矢部町、5日~11日を吉田町、12日~晦日(月末)を中宿の問屋場が担当していました。
■問屋場