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戸塚パルソ通信@メール 第119号

戸塚宿を行く(歴史探訪)

vol055

戸塚の近くの【鎌倉殿】和田合戦の先駆け・泉親衡の乱

■鎌倉幕府を揺るがした和田合戦

源頼朝の旗揚げから、幕府の中枢にあった、北条氏と三浦一族。有力武士団が次々と粛清されてゆく中、この両勢力の緊張が高まっていきました。
ついに建暦3年(1213)、三浦一族の重鎮・和田義盛が、北条氏打倒の兵を挙げます。
和田義盛は、将軍実朝を確保すべく、幕府の御所を襲撃しますが、北条氏に遮られます。さらには同族の三浦義村が寝返り、背後から和田勢を攻撃。絶体絶命の状況を、武勇に名高い和田義盛は押し返します。
和田軍には、夜になって到着した横山党や、梶原や大庭など、一族の主力が粛清され、冷遇されていた武士たちも合流して、翌日一大決戦となります。
しかし、将軍実朝を擁する北条方に御家人が次々と味方し、和田勢は力尽きます。
鎌倉幕府を二分するほどの大合戦は、北条方の勝利となり、ここに北条氏専制の鎌倉幕府の体制が確立するのです。

■和田合戦を引き起こした「泉親衡の乱」

この和田合戦には布石があります。「泉親衡の乱」です。
信濃源氏を名乗る泉親衡が、源頼家の遺児、千手丸を擁して北条氏打倒の陰謀を企みますが、事前に露見。
この陰謀に和田義盛の息子と甥が加担していたことで、和田と北条に決定的な亀裂が走ります。
和田義盛の息子は、父親の功績によって無罪放免となったものの、甥の財産は全て没収され、北条氏のものとなってしまったことで、メンツを潰された和田義盛が北条氏打倒を決意したと言われています。

これだけの大事件を引き起こしていながら、泉親衡、全くの謎に包まれています。
信濃の源氏ということで、ひょっとしたら、木曾義仲の関係者と何かのつながりがあったのかもしれません。
また、大河ドラマで描かれているように、和田義盛が、木曾義仲の愛妾、巴を側室にしていたという伝説もあり、和田義盛自体が、泉親衡(信濃源氏)と繋がりを持っていたのかもしれません。
泉親衡の屋敷は、現在の泉区の、泉中央公園にあったとされ、近隣にさまざまな遺構が残っています。

■長福寺
泉親衡が、道場として開いた場所に建立されたと言われる臨済宗のお寺
■須賀神社
長福寺の脇に立つ神社で、屋敷の守護として祀られたと言われる。疫病退散のご利益が言われている。 ■泉中央公園
長福寺の背後ある小高くなった丘。ここに、泉親衡の屋敷があったと言われる。 ■馬洗いの池
泉親衡の屋敷の中にあって、馬を洗うための池だったと言われる。昭和の初期まで、どんな日照りでも水が枯れなかったという。 ■神明社
泉親衡の屋敷の鬼門を守るために祀られたという。その背後には中田村役場の跡地がある。昔からこの泉地域の中心部だったと考えられる。 ■滝前不動尊
泉親衡の守り仏が祀られている。かつては滝行ができるほどの水量のある滝だったが、現在ではわずかに水が滲み出て、滝の名残を示しています。 守り仏の石碑。不動明王と弁財天が一緒に祀られています。

■千手丸伝説

泉親衡に擁立されたという源頼家の遺児、千手丸は、定説では「栄実」という僧になったとされていますが、実像は明らかではありません。埼玉県川越市の最明寺には、泉親衡と共に落ち延びてきた千手丸が、その寺の開祖になったという伝説があります。
近いところでは、港南区の野庭団地の中に城跡がある野庭関城に匿われ、農民となったとも言われています(和泉往来)
野庭といえば、北条政子とゆかりの深い馬洗川の源流で、野庭の一帯は、北条政子の領地だっという説もあります。
千手丸の伝説は、北条政子が助命に奔走したという話が多く伝わっており、野庭に隠遁したという説も、荒唐無稽ではないかもしれません。

■野庭関城跡 ■野庭団地

●野庭関城跡地