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戸塚パルソ通信@メール 第122号

戸塚宿を行く(歴史探訪)

vol058

飯田家義もう一人の「頼朝を救った男」(1)

■「頼朝を救った男」

■源平盛衰記:洞穴に隠れる頼朝を庇う梶原景時(楊洲周延)
源頼朝の最大のピンチを救った男は、もう一人いた!?

■石橋山の戦い:頼朝敗れる

1180年(治承4年)。源頼朝は、以仁王の令旨を旗印に打倒平家の軍を挙げた。初戦の山木館襲撃は勝利したものの、相模の豪族大庭景親と伊豆の豪族伊東祐親に攻められる。頼朝は、呼応するはずだった勢力と分断され、特に最大の戦力だった三浦一族が、悪天候のために酒匂川で足止めをくってしまう。
圧倒的な兵力差のまま、大庭・伊東の連合軍と、今の小田原、石橋山で激突することになった頼朝軍は完膚なきまでに叩きのめされる。
かろうじて、土肥の椙山に逃げ込むが、残党狩りの手が伸びる。
この危地を救った人物として名高いのが、梶原景時。大庭景親の軍に加わっていながら、洞穴に潜む頼朝を発見するも見逃し、その後、頼朝方に寝返ると、その功から、頼朝に重用され、第一の寵臣となる、、というのが、よく知られたストーリー。
しかし、この時、敗残の源頼朝を助けた人物が、もう一人いる。
今の泉区を地盤にする「飯田家義」である。

■石橋山合戦(勝川春亭)

飯田家義は、高座郡(今の藤沢から寒川)に勢力を持っていた渋谷重国の五男と言われる。
渋谷重国は、源義朝の郎党であったから、飯田家義も源氏恩顧であった可能性がある。
そのせいかどうか、早くから源頼朝とは誼を通じていて、挙兵の際は味方として駆けつける約束が出来ていたとされる。
渋谷・飯田の勢力圏は、大庭景親の勢力圏と重なり、所領争いが絶えなかった。
平清盛を後ろ盾とする大庭景親に対抗するために、源頼朝が必要だったのだろう。
そうした経緯から、大庭景親も、いざ頼朝挙兵の際には飯田家義が頼朝方につくと予想していたらしく、石橋山に出陣する際に、弟の俣野景久とはかり、出陣しようとしていた飯田家義を挟み撃ちにして、強制的に大庭軍に組み込んでしまう。
大軍の中で離反の動きをすれば、そのまま揉み潰されるため、身動きが取れなくなる。
飯田家義は「平家方として働くつもりだった」と取り繕いながら、脱出の機会を伺うが、そのチャンスがないまま、石橋山の合戦となり、頼朝たちは行方不明になる。
残党狩りの中で、飯田家義は、大庭・伊東よりも先に頼朝を発見することに成功。土肥の椙山に頼朝を逃すのである。
飯田家義の手引きがなければ、頼朝が椙山にまで辿り着けたかわからない。

■石橋山の朽木に霊鳩頼朝を助く(小国政) 飯田家義は、そのまま頼朝軍に加わることを願い出たが「敗走の中大人数だと目立つ」という土肥実平の進言により、泣く泣く別れたと伝わる。
その後、頼朝が再起して鎌倉を席巻すると、ようやく飯田家義は頼朝軍に加わることができた。
「水鳥の羽音」のエピソードで有名な富士川の戦いに従軍し、平家からの追悼軍を撃退することに戦功を挙げ、頼朝から
「前には石橋山で我が命を救い、今また戦功をなすは本朝無双の勇士なり」
と激賞される。その時の恩賞として、飯田郡の正式な支配を認められたという。

そこで飯田家義の記述はぷつりと途切れる。
次に歴史の舞台に登場するのは、実に20年後。
奇しくも石橋山で(結果として)協力して頼朝を救った、梶原景時を追討したのが、この飯田家義である。 その功により、駿河国大岡の地頭となったという。

■下飯田町(飯田家義の所領があったとされる)