戸塚パルソ通信@メール 第19・20・21号
戸塚宿を行く
vol.008
大塔宮の足跡
鎌倉幕府滅亡から南北朝に至る動乱の時代の英雄の一人、大塔宮護良親王。
戸塚に残る「大塔宮伝説」を探ります。
○大塔宮とは?
大塔宮とは、鎌倉幕府の打倒に活躍した、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王のこと。
明治天皇の勅願により「鎌倉宮」のご祭神としてお祭りされています。 大塔宮護良親王の読み方は「おおおとうのみや もりよししんのう」というのが現代では一般的ですが、「だいとうのみや」や「もりながしんのう」という読み方をされることもあります。
鎌倉宮の最寄りのバス停の読み方は「だいとうのみや」また、鎌倉宮ではご祭神のよみがなに「もりながしんのう」とルビを振っています。
○護良親王終焉の地
護良親王は、鎌倉幕府打倒のため、楠木正成らとともに活躍します。全国の反鎌倉幕府勢力に令旨(命令書)を送り、倒幕に決起させるなど、その功績は大きく、建武の新政では征夷大将軍となり、中心的役割を果たします。しかし、その後、足利尊氏らとの政争に破れ、皇位簒奪を企んだ容疑で鎌倉に移送、監禁されます。 それが当時の東光寺の土牢、現在の鎌倉宮の地といわれています。この地で護良親王は最期を迎えることになります。
○中先代の乱
建武2年(西暦1335年)当時、鎌倉には足利尊氏の弟、足利直義が実質的なトップとして君臨していました。 そこに信濃の勢力が、鎌倉幕府最高権力者であった北条高時の遺児、北条時行を旗頭として侵攻します。中先代の乱です。 後醍醐天皇の新政府は、足利氏が鎌倉を拠点に「新・鎌倉幕府」を起こすことを警戒していたため、足利氏の主力部隊は尊氏とともに京都に留め置かれていました。そのため、足利直義は北条時行の侵攻を食い止められず、鎌倉を放棄して敗走します。
○護良親王弑逆
鎌倉敗走の際、足利直義は護良親王が北条時行に、錦の御旗として担がれることを恐れ、家臣の淵辺義博(ふちのべ よしひろ)に護良親王殺害を命じたといわれます。 襲撃された護良親王は、一年近く幽閉され、衰弱していたにもかかわらず、相手の刀を噛み砕くほどの抵抗を見せますが、ついには力つきます。 しかし、首を取られてなお、睨みつける護良親王の形相に恐れをなした淵辺義博は、その場に首級を打ち捨てて逃げ出すのです。
○護良親王の首の行方
淵辺義博が、捨ててしまった為に、首の行方に諸説が生まれます。 公式には、護良親王の首は、250mほど山を登った理智光寺の住職に弔われ、同寺に葬られたとされていますが、山梨県の都留市や富士宮市など、全国各地に護良親王の首を葬ったとされる場所があります。そして、ここ戸塚にも。
次回以降、戸塚にも残る、大塔宮護良親王の言い伝えを検証します。
鎌倉幕府滅亡から南北朝に至る動乱の時代の英雄の一人、大塔宮護良親王。
戸塚に残る「大塔宮伝説」を探ります。
○戸塚の護良親王伝説
柏尾町にある王子神社。 ここに、戸塚の護良親王伝説が伝わります。戸塚区のHPには「首洗いの井戸」が掲載されています。それによれば、護良親王が殺害された後、打ち捨てられていた首は、侍女である某女によって守られ、柏尾にまで運ばれたとされます。この井戸で洗い清められたのち、王子神社の本殿に当たる場所に埋葬されたとのこと。
今回、戸塚の歴史に詳しい戸塚見知楽会会員で、戸塚史跡ボランティアガイドとしても活躍される、西村弘人さんにご案内いただきました。
西村さんは戸塚区の史蹟調査に参加した時に、赤関橋から不動坂に至る地域を「この辺りの道はほぼ全て歩いたんじゃないでしょうかね」と、いうほど綿密な調査をされました。 王子神社や、それを支える氏子さんとの交流もあり、かなり深くご存知の様子。
お話に先立ち、戸塚と、他の地域の護良親王伝説を比較してみました。
○1・ひなづる伝説
護良親王に寵愛を受けていた「ひなづる姫」が親王の首を持って甲斐にまで逃げた。姫は親王の子を身ごもっており、その地で出産するが、力つきる。生まれた王子も幼くして亡くなるという悲劇。ひなづる姫が携えて来た護良親王の首は、岩船神社に祀られたとされる。山梨県都留市の「石船神社」では、ご神体として護良親王の首級とされるミイラが安置されている。
○2・南の方と妙法寺
こちらは、鎌倉大町の妙法寺を中興した日叡上人が、護良親王の忘れ形見だという説。護良親王の首は、側仕えをしていた「南の方」という女性と、その子で護良親王のご落胤である日叡上人が、鎌倉で守ったということになっている。
○3・淵野辺伝説
護良親王を討ったとされる淵辺義博は、実は忠義の士で、親王を救ったという伝説。「親王の首は捨てた」として足利直義を欺き、親王を一旦自分の領地に匿ったのちに、奥州石巻へ落ち延びたとされる。護良親王は石巻で亡くなり、現地の一皇子神社に葬られたという。
○南北朝から繋がる歴史
これらの伝説に比べると、戸塚の伝説は、親王の首を運んだ女性が、ただの侍女であり、名前さえ伝わっていないところに、逆にリアリティを感じます。
さらに西村さんによると、戸塚の伝説には細かいバージョンもあるそうなのですが、共通しているのは「柏尾の斉藤氏を頼って来た」ことなのだそう。
「南北朝時代、柏尾の辺りは、斉藤・岡部・益田という三つの有力な家がありました。この柏尾の斉藤家というのは、明治に日本で最初の国産ハム「鎌倉ハム」を作った斉藤家に続いているんです」
南北朝時代の護良親王伝説は、現代にまでちゃんと繋がっていたのです。
○次回:さらに繋がる南北朝と現代。「益田のモチノキ」と「護良親王伝説」!?
○鎌倉ハム発祥の地
※近くに「史蹟への小径」の碑もある。
戸塚見知楽会会員で、戸塚史跡ボランティアガイドとしても活躍される、西村弘人さんに戸塚の護良親王伝説をご案内いただきました。
○護良親王と柏尾の有力者たち
護良親王伝説に登場する柏尾の有力者「斉藤氏」は、そのまま長い年月を経て、文明開化の時代、日本で最初の国産ハムを製造した、鎌倉ハムの創業家の一つとなったとか。
首洗いの井戸、四つ杭を経て、王子神社に向かう「史蹟への小径」が、鎌倉ハム発祥の地から始まっているのは偶然ではないのかも。
途中、神宮拝領の檜を通ります。伊勢神宮式年遷宮にあたり、伊勢神宮からいただいた檜で、王子神社の氏子の方々が大切に守っている様です。手入れされた敷地に、かなり年季の入った屋根付きの丸太組があります。西村さんによると、王子神社の氏子が管理していた地域掲示板で、かつては伊勢神宮や神戸の湊川神社参拝の様子などが掲示されていたとか。
湊川神社は楠木正成を祀った神社。護良親王とは浅からぬ縁があるということで、交流が持たれたものと思われます。
首洗いの井戸です。井戸の跡とされているコンクリの枠組みの中はすっかり枯れています。
護良親王の首をお祀りしたという四つ杭の跡。俗に「鎌倉から四つの山を越えて来た」=四つ越えが訛ったという話もあります。お祀りする時には四本の杭を立てて結界を張るので、そちらから来たともいわれます。
浄土真宗の成正寺の境内を通ります。
前を行く西村さん。江戸時代、東海道などは別として、脇道に入れば、多くはこんな感じだったらしいです。
いよいよ、王子神社に到着です。
桧皮ぶきの手水屋。使われている材木は、護良親王が活躍された吉野の杉。石は同じく黒木御所付近の石材。親王にとって、栄光の地、第二のふるさとといえる場所の素材を用いています。
王子神社へ向かう間、多くの史蹟、護良親王顕彰碑がありましたが、その施主の筆頭に名前が挙がっていたのが「益田」さんでした。西村さんによれば、この益田さんは、南北朝時代、斉藤家と並ぶ柏尾の有力者であった益田家の末裔。先代のご当主は大変熱心な王子神社の氏子さんだったそうです。
西村さんが伺ったところ、「益田家は、護良親王が自由の身になった時、お守りして、京都へのご帰還を補佐する役を仰せつかっていたが、親王が殺害されてしまったため、その役を果たせなかった。なので、代々、親王の霊をお守りしているのです」と、王子神社への情熱の理由を語って下さったとか。
この益田家は、神奈川県の指定天然記念物「益田家のモチノキ」でも有名です。
益田家の先代ご当主によると、このモチノキは、益田家のご先祖が、護良親王ゆかりの吉野・黒滝村から苗木をいただき、植えたものとのこと。「益田家のモチノキ」は、益田家が護良親王を偲ぶためのモノだったのでしょうか?その思いが、モチノキをここまで大きく立派に育てたのでしょうか。
益田家の敷地では、モチノキと並ぶ形で、塀に描かれた山影を眺めることが出来たそうです。
「その山影は吉野から見た風景だというんだけど、だとすると山の位置が逆なんだよね」と、西村さん。
それならば、河内方面から吉野を眺めた光景ということになります。「千早・赤坂城」からの眺めかもしれません。千早・赤坂城は、楠木正成らとともに、護良親王が鎌倉幕府軍に対して挙兵、建武の新政の狼煙を上げた、「始まりの地」。
その風景が、ここに再現されているのだとすると、どんな思いが込められているのでしょうか?