戸塚宿を行く

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戸塚パルソ通信@メール 第20号

戸塚宿を行く

vol.008-02

大塔宮の足跡2

鎌倉幕府滅亡から南北朝に至る動乱の時代の英雄の一人、大塔宮護良親王。

戸塚に残る「大塔宮伝説」を探ります。

○戸塚の護良親王伝説

柏尾町にある王子神社。 ここに、戸塚の護良親王伝説が伝わります。戸塚区のHPには「首洗いの井戸」が掲載されています。それによれば、護良親王が殺害された後、打ち捨てられていた首は、侍女である某女によって守られ、柏尾にまで運ばれたとされます。この井戸で洗い清められたのち、王子神社の本殿に当たる場所に埋葬されたとのこと。

今回、戸塚の歴史に詳しい戸塚見知楽会会員で、戸塚史跡ボランティアガイドとしても活躍される、西村弘人さんにご案内いただきました。

西村さんは戸塚区の史蹟調査に参加した時に、赤関橋から不動坂に至る地域を「この辺りの道はほぼ全て歩いたんじゃないでしょうかね」と、いうほど綿密な調査をされました。 王子神社や、それを支える氏子さんとの交流もあり、かなり深くご存知の様子。

お話に先立ち、戸塚と、他の地域の護良親王伝説を比較してみました。

○1・ひなづる伝説

護良親王に寵愛を受けていた「ひなづる姫」が親王の首を持って甲斐にまで逃げた。姫は親王の子を身ごもっており、その地で出産するが、力つきる。生まれた王子も幼くして亡くなるという悲劇。ひなづる姫が携えて来た護良親王の首は、岩船神社に祀られたとされる。山梨県都留市の「石船神社」では、ご神体として護良親王の首級とされるミイラが安置されている。

○2・南の方と妙法寺

こちらは、鎌倉大町の妙法寺を中興した日叡上人が、護良親王の忘れ形見だという説。護良親王の首は、側仕えをしていた「南の方」という女性と、その子で護良親王のご落胤である日叡上人が、鎌倉で守ったということになっている。

○3・淵野辺伝説

護良親王を討ったとされる淵辺義博は、実は忠義の士で、親王を救ったという伝説。「親王の首は捨てた」として足利直義を欺き、親王を一旦自分の領地に匿ったのちに、奥州石巻へ落ち延びたとされる。護良親王は石巻で亡くなり、現地の一皇子神社に葬られたという。

○南北朝から繋がる歴史

これらの伝説に比べると、戸塚の伝説は、親王の首を運んだ女性が、ただの侍女であり、名前さえ伝わっていないところに、逆にリアリティを感じます。

さらに西村さんによると、戸塚の伝説には細かいバージョンもあるそうなのですが、共通しているのは「柏尾の斉藤氏を頼って来た」ことなのだそう。

「南北朝時代、柏尾の辺りは、斉藤・岡部・益田という三つの有力な家がありました。この柏尾の斉藤家というのは、明治に日本で最初の国産ハム「鎌倉ハム」を作った斉藤家に続いているんです」

南北朝時代の護良親王伝説は、現代にまでちゃんと繋がっていたのです。

○次回:さらに繋がる南北朝と現代。「益田のモチノキ」と「護良親王伝説」!?

○鎌倉ハム発祥の地

※近くに「史蹟への小径」の碑もある。