戸塚パルソ通信@メール 第19号
戸塚宿を行く
vol.008-01
大塔宮の足跡1
鎌倉幕府滅亡から南北朝に至る動乱の時代の英雄の一人、大塔宮護良親王。
戸塚に残る「大塔宮伝説」を探ります。
○大塔宮とは?
大塔宮とは、鎌倉幕府の打倒に活躍した、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王のこと。
明治天皇の勅願により「鎌倉宮」のご祭神としてお祭りされています。 大塔宮護良親王の読み方は「おおおとうのみや もりよししんのう」というのが現代では一般的ですが、「だいとうのみや」や「もりながしんのう」という読み方をされることもあります。
鎌倉宮の最寄りのバス停の読み方は「だいとうのみや」また、鎌倉宮ではご祭神のよみがなに「もりながしんのう」とルビを振っています。
○護良親王終焉の地
護良親王は、鎌倉幕府打倒のため、楠木正成らとともに活躍します。全国の反鎌倉幕府勢力に令旨(命令書)を送り、倒幕に決起させるなど、その功績は大きく、建武の新政では征夷大将軍となり、中心的役割を果たします。しかし、その後、足利尊氏らとの政争に破れ、皇位簒奪を企んだ容疑で鎌倉に移送、監禁されます。 それが当時の東光寺の土牢、現在の鎌倉宮の地といわれています。この地で護良親王は最期を迎えることになります。
○中先代の乱
建武2年(西暦1335年)当時、鎌倉には足利尊氏の弟、足利直義が実質的なトップとして君臨していました。 そこに信濃の勢力が、鎌倉幕府最高権力者であった北条高時の遺児、北条時行を旗頭として侵攻します。中先代の乱です。 後醍醐天皇の新政府は、足利氏が鎌倉を拠点に「新・鎌倉幕府」を起こすことを警戒していたため、足利氏の主力部隊は尊氏とともに京都に留め置かれていました。そのため、足利直義は北条時行の侵攻を食い止められず、鎌倉を放棄して敗走します。
○護良親王弑逆
鎌倉敗走の際、足利直義は護良親王が北条時行に、錦の御旗として担がれることを恐れ、家臣の淵辺義博(ふちのべ よしひろ)に護良親王殺害を命じたといわれます。 襲撃された護良親王は、一年近く幽閉され、衰弱していたにもかかわらず、相手の刀を噛み砕くほどの抵抗を見せますが、ついには力つきます。 しかし、首を取られてなお、睨みつける護良親王の形相に恐れをなした淵辺義博は、その場に首級を打ち捨てて逃げ出すのです。
○護良親王の首の行方
淵辺義博が、捨ててしまった為に、首の行方に諸説が生まれます。 公式には、護良親王の首は、250mほど山を登った理智光寺の住職に弔われ、同寺に葬られたとされていますが、山梨県の都留市や富士宮市など、全国各地に護良親王の首を葬ったとされる場所があります。そして、ここ戸塚にも。
次回以降、戸塚にも残る、大塔宮護良親王の言い伝えを検証します。