戸塚パルソ通信@メール 第36号
戸塚宿を行く
vol.013-02
戸塚宿誕生へ澤邉信友と戸塚宿2
戸塚宿の誕生に深く関わった澤邉家。その家祖である澤邉信友と戸塚宿誕生のエピソードに迫ります。
( ◀ 澤邉信友と戸塚宿(1) )
○国府台合戦
澤邉信友が資料に登場するのは、天文七年(西暦1538年)、北条氏と里見氏他連合軍の戦いである国府台合戦からといわれています。相模、武蔵を制圧した、新興の小田原北条氏に対して、房総の在地勢力が連合してこれに対抗した結果、下総の国府台城において両軍が激突。在地勢力の旗頭であった小弓公方足利義明(15代将軍とは別人)を打ち取るなどした北条氏の勝利となり、南関東での北条氏の覇権が確立した戦いです。
この時の北条氏方の戦死者に「澤邉信直」という名前が見えます。澤邉信友の父です。澤邉信直の戦死に伴い、澤邉信友は出羽の国に落ち延びたとされます。おそらくは幼少であり、すぐに当主を継げない事情があり、母方の実家へ避難したと考えるのが妥当です。
北条九代記鴻之台合戦図(芳虎)
○戸塚の盟主へ
羽黒神社
出羽の国に避難している時、羽黒神社やその山伏たちとの交流があったのでしょう。源義経の時代から、羽黒の修験者は全国にネットワークを張り巡らせた情報機関でした。
北条氏もその価値は十分評価していたに違いありません。正確な年代はわからないものの、北条氏の旗下に戻った澤邉信友は、戸塚の盟主の一人としての地位を確立します。今に残る羽黒神社は、その恩に報いるものなのかも知れません。
○澤邉家三本の矢。
澤邉信友には三人の子女が確認できます。一人は嫡男の信久(宗三)。そして彦坂小刑部の妻となった娘。もう一人が鎌倉・円覚寺で活躍した僧、古帆周信です。
彦坂小刑部は古くからの徳川家の家臣で、街道整備などに活躍しました。小荷駄奉行を務めるなど、物流に力を持っていました。東海道のヒトとモノの集積地である戸塚の実力者、澤邉信友と結びついたのは自然だと言えるでしょう。
戸塚の在地の実力者と、徳川家の代官、そして鎌倉の寺院を三本の矢とした澤邉信友は、天正十九年(1591年)にこの世を去ります。
○そして戸塚宿へ。
その後、 事実上の宿場機能を持ちながら、何故か宿駅(宿場町)とされなかった戸塚。
実は宿駅とされると、それに見合った負担金が課せられるのです。それを免れる為に敢えて名を取らなかった可能性が考えられ、そうであるならば宿駅の仕組みに詳しい彦坂小刑部の関与が疑われます。
ところがそれを見ていて収まらなかったのが藤沢宿でした。
「戸塚は不正に宿駅営業をしている」と藤沢宿が幕府に訴え出たことから、一度は「戸塚は宿駅としての仕事をしてはならない」という命令が出てしまいます。
ここで各方面に奔走したのが澤邉信久でした。
幸い、保土ヶ谷宿が好意的に動いてくれ、また彦坂小刑部の力もあったのか、戸塚宿は正式な宿駅として、負担金を支払うことで無事に従前通りの活動を認められることになったのでした。ここに、戸塚宿が、名実共に誕生することになるのです。
澤邉信友供養塔(海藏院)
◆戸塚消防署◆(すぐ北側に澤邉本陣跡の碑があります)
参考:「戸塚の歴史」大橋俊雄