戸塚宿を行く

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戸塚パルソ通信@メール 第57号

戸塚宿を行く

vol.024-1

戸塚宿成立の立役者知られざる実力者 彦坂小刑部元正(1)

関ヶ原合戦図(wikipedia:public domain)

このところ、ネット上で歴史好きがざわついています。
天下分けめの「関ヶ原の戦い」で、勝敗を分けたといえば小早川秀秋の裏切りですが、従来の定説のように、戦いの最中に裏切ったのではなく、開戦当初から、小早川勢は徳川方として戦った、という説が、にわかに注目されてきたのです。
これは数年前から徐々に発表されていたのですが、今年に入って(2017年)なぜか急に広まりました。
そして、その説の証拠として、クローズアップされたのが、聞き覚えのある名前「彦坂元正」です。

( 彦坂小刑部元正(2)▶ )

○知られざる実力者、彦坂元正

彦坂元正は、小刑部の通り名で知られます。戸塚宿の誕生にあたり、その立役者、澤邊宗三直久は、岡津の代官であり、妹婿でもあった彦坂小刑部の力を借りたとされ、戸塚の歴史を語る場合、その話は必ずと言っていいほど出てきます。

その彦坂小刑部、戸塚宿どころか、徳川家康の関東経営で辣腕を振るった(つまり江戸幕府の基礎固めを行った)かなりの実力者だったことが、わかってきているのです。

江戸城(wikipedia:public domain)

彦坂元正は、今川家の元家臣。今川家の没落の際、徳川家に降ったようです。元亀元年の姉川の戦いでは弓の腕で功を挙げたという記録があり、また、小田原城攻めでも軍功を挙げたとされ、将兵としても有能でした。だが彼が最も本領を発揮したのは、経済官僚としての検地の指揮や、兵站能力でした。

徳川家が関東に移封されると、家康は、4人の代官頭を任命し、領地支配(江戸以南)の責任者とします。そのうちの3人が「三目代(さんもくだい)」として特に有力と言われ、彦坂元正は、そこに数えられます。残りの二人が、伊奈忠次と大久保長安というビッグネームであり、それと肩を並べる存在であった訳です。肩を並べるどころか、任された支配地域を見ると、当初は相模九郡中の六郡(現在の神奈川県の半分以上)と、彦坂元正が最も大きく、三目代の筆頭と言っても過言ではありません。

さらにこの時、彦坂元正は「江戸町奉行(のちの裁判官的な江戸町奉行ではなく、江戸の代官)」にも任じられたのですが、その時の同僚が、天野康景(岡崎以来の重臣)と板倉勝重(後の京都所司代)です。

彦坂元正は、江戸町奉行として、江戸にも拠点を持っていたのですが、相模支配のための拠点を岡津の代官所としたことで、戸塚との深い縁ができてゆくことになります。

冒頭の、関ヶ原の戦いの時、彦坂元正は小荷駄奉行を務め、兵站を指揮していました。 石田三成が敗れた後の居城、佐和山城の接収など、重要な役目を与えられています。
そんな中、関ヶ原の戦いの経緯を、家康の一門、松平家乗に、石川康通と連署で知らせているのですが、そこに「小早川秀秋が開戦と同時に徳川に付いた」とあるのです。彦坂元正の地位と、立場から、この連署状が、有力な一次資料として改めて脚光を浴びているのです。

佐和山城図(wikipedia:public domain)

上に見るように、大きな権限を持っていたと考えられる彦坂元正でしたが、関ヶ原の戦いの翌年(1601)、蟄居謹慎という急転直下の出来事が待っていたのです。戸塚宿の誕生にも関わる、幕府内部の暗闘が透けて見えてくるのですが、それについては、次回。

○岡津陣屋跡(岡津中学校)

参考文献:とみづか39号・41号(戸塚歴史の会)