戸塚パルソ通信@メール 第58号
戸塚宿を行く
vol.024-2
栄光と失脚知られざる実力者 彦坂小刑部元正(2)
岡津陣屋跡とされる岡津小学校を新鷹匠町橋より望む。
徳川家の代官として、家康江戸入府から江戸幕府初期、南関東を統括するほどの実力者だった彦坂小刑部元正。
実に劇的な生涯がわかってきました。
( ◀彦坂小刑部元正(1))
○画期的な彦坂検地
彦坂元正は、その任地において、「彦坂検地」と呼ばれる、独特な検地を行いました。簡単に言うと、凶作の年は年貢の率を減らし、通常の年に多めに徴収するという方式です。
当時の年貢は、豊作の年も凶作の年も、一定の率で徴収するのが普通でしたが、それですと凶作の時の負担感が大きくなり、領民の不満につながります。一方で、通常年は若干年貢が高くても、大きな不満は出ません。そして凶作で苦しんでいるときに年貢が減免されれば、領主への感謝となり、統治しやすくなります。しかも年貢の絶対額は、彦坂検地の方が多くなる可能性が高く、メリットが大きいのです。
今もなお城塞の雰囲気を漂わせる岡津陣屋比定地
○鎌倉の寺社勢力との軋轢
しかし、これは一般的には通用しても、徴収する側であった旧の支配層、特に学問に明るい神社仏閣には通用しませんでした。
朝三暮四にも似た彦坂検地は、結局は年貢の額を増やすための欺瞞に見えたのでしょうか。
「彦坂元正は年貢徴収で不正を行っている」という不満が漏れてきます。
ついには関ヶ原の戦いの翌年の1601年、彦坂元正の采配による鶴岡八幡宮の造営事業で大きな不正があったとの訴えが出されます。
鎌倉の寺社勢力との対決を避けたかった徳川家は、この訴えを受けて、彦坂元正を奉行職から解雇し、閉門蟄居を命じることになります。
のちに彦坂元正の姻戚である澤邊家から、古帆周信が鎌倉の円覚寺に入り、改革を行ったというのは、この流れが関係あるのかもしれません。
円覚寺山門
◯復活と躍進
普通ならば、ここで彦坂元正の役人人生は終わりです。切腹にならなかっただけありがたいというようなものですが、彦坂元正は猛烈な名誉回復運動を開始します。1602年、おそらくは徳川家康の将軍宣下の恩赦により、わずか一年で閉門蟄居を解かれ代官に復帰するのです。
ただ、かつての関東三目代の筆頭は、伊奈忠次に譲る形となり、彦坂元正は、東海の駿河、遠江、三河を在地支配するとともに、伊豆での金山銀山の開発に携わることになります。
駿遠三といえば、徳川家の故地ですから、大変な名誉と権力を手にしたことになります。
◯徳川幕府の安定と"リストラ"
しかし、それは外見上のこと。実際は徳川家の支配が盤石になってきた関東に、3人も4人も代官はいらない、というリストラの裏返しでした。拠点を関東に置いたまま、東海を支配することは実質不可能です。金山銀山開発は「山師」という言葉があるように、成功確率が限りなく低い職務です。同じく代官として辣腕を振るった大久保長安 も同じような境遇に置かれ、のちに「大久保長安事件」につながります。
そんな中、1604年に戸塚宿が開宿します。彦坂元正の実力、いまだ衰えず、と見えたのもつかの間、翌年には伊豆支配の役職を解かれてしまいます。さらに1606年、農民強訴(年貢不正の訴え)を受け、彦坂元正はついに改易。一代で南関東の支配者にのし上がった元正の彦坂家は断絶します。
ただここでも死罪とならないのが彼のしぶといところです。改易後は幕府の実力者、土井利勝の食客(おそらくは政治顧問)として余生を送り、1634年、80歳台と推定される年齢で大往生を遂げることになるのです。
○岡津陣屋跡(岡津中学校)
参考文献:とみづか39号・41号(戸塚歴史の会)