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戸塚パルソ通信@メール 第63号

戸塚宿を行く

vol.027-1

源平に翻弄された大庭一族義の男・俣野五郎景久(1)

■「石橋山合戦」勝川春亭
中央で奮戦しているのが俣野五郎

今回は、戸塚ゆかりの武将、俣野五郎景久を取り上げます。
俣野五郎は、源平合戦初期に活躍した武将で、相模の大庭氏の出身です。大庭氏は遡ると、鎌倉郡を根拠地とし、源義家の有力武将であった鎌倉権五郎景正に行き着くとされています。

平安後期、台頭した武士たちは、自分の支配地を、名目上公家や寺社に献上することで支配権を確立していました。鎌倉景正も例に漏れず、自らが開拓した高座郡の広大な地域を、伊勢神宮に献上しています。これを「大庭御厨」と呼び、代々大庭御厨を管理した子孫が大庭氏を名乗りました。

現在、藤沢市には「大庭」の地名が残りますが、大庭御厨は、それをはるかに超え、現在の藤沢市南部に茅ヶ崎市や寒川町を含む広大な地域だったとされます。

平安末期に起こった保元の乱では、大庭一族はつながりの深かった源義朝方につき、大庭景義、景親の兄弟が参戦します。俣野五郎の兄二人です。この戦いで大庭景義は敵となった源為朝の矢を受けて大怪我をしますが、「射られて生き延びたものはいない」と言われる為朝の矢から生還したことで、勇名をあげたと言われています。

のちに、大庭氏は平氏に降り、源頼朝の挙兵に対しては、平氏による頼朝追討軍の総大将に大庭景親が選ばれます。

「源頼朝石橋山旗上合戦」歌川国芳
中央の梶原景時が頼朝を匿っている図

その時、俣野五郎景久は、兄、大庭景親の副将格として歴史に登場します。彼が大庭ではなく俣野を名乗っているのは、その時、俣野地域一帯を自らの支配地としており、実家である大庭氏から独立していたことを示しています。
広大な大庭御厨の一部を分割してもらったのか、部屋住みを嫌って、自力で俣野地域を開拓したのか、はっきりとしたことはわかりません。現在の俣野地域(東俣野・西俣野を含む)は東海道の北側と、境川の両岸に分布して、大部分は鎌倉郡にあたります。大庭御厨から見ればいわば外部。俣野五郎が自ら切り開いて行った可能性が高いようにも思えます。

現在の「俣野」地名

さてこの時、長兄である大庭景義だけが、源頼朝追討に反対します。義家に権五郎景正が仕えて以来、主君は源氏であり、大庭は源氏に味方すべきと主張したのです。

大庭景親と俣野五郎は、源義朝滅亡以後は平氏が主君であり、多くの恩も受けていると主張して譲らず、結局景義だけが、源頼朝の軍勢に参加します。ここで大庭氏は分裂することになります。これが大庭氏を滅亡から救うことになるのは歴史の皮肉なのかもしれません。

伊豆で挙兵した源頼朝軍を、大庭景親率いる平氏軍は小田原郊外の石橋山に10倍の兵力で待ち受け、打ち破ります。この時、俣野五郎は頼朝の近臣であった佐奈田与一を激闘の末、打ち倒したと、『平家物語』や『源平盛衰記』で語られています。

次回:源氏の逆襲!追い詰められた俣野五郎は?

○俣野町