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戸塚パルソ通信@メール 第64号

戸塚宿を行く

vol.027-2

源平に翻弄された大庭一族義の男・俣野五郎景久(2)

■俣野五郎の子孫が祀られている「俣野大権現」

■その後の俣野五郎

兄、大庭景親とともに、源頼朝を撃破した俣野五郎ですが、梶原景時の裏切りによってあと一歩のところで源頼朝を討ち漏らします。
頼朝は、わずかな手勢とともに海へ逃れ、房総半島へ上陸。追ってきた味方の三浦一族らと合流すると、あっという間に房総、武蔵を席巻し、関東の主な武将を束ね、逆襲に転じます。

一気に劣勢となった、俣野五郎ら関東の平家方は、頼朝追討のために関東へ向かってきた、平家主力軍と合流して、対抗しようと計ります。しかし、世に「水鳥の羽音に驚いて敗走した」と言われる富士川の戦いで、平家軍は壊滅。大庭景親はこのとき捕らえられ、相模・片瀬で斬首となります。

しかし俣野五郎は残党を束ね、平家軍ととも行動します。木曾義仲が信州で挙兵し、北陸から京へ攻めかかると、これを防ぐべく平維盛軍の一将となり出陣します。

しかし、時の勢いはもはや平家になく、木曾義仲の前に連敗。もはや全滅か投降か、となった時、斎藤実盛という武将が諸将に問いかけました。

「もはやこれまで。犬死するよりは、木曾義仲に投降し、今後は平家打倒のために働き、功をあげようではないか」

勇将で知られた斎藤実盛の言葉に、諸将に動揺が走ります。「平家を裏切ろうか、」

その時、応えたのが俣野五郎でした。

「我らは東国では少しは名の知れた者共ではないか。時の形勢を見て、ふらふらするような意気地のないことをすれば、末代までの恥となる。我は最後まで平家方として戦い抜くつもりだ。」

この一言で諸将の動揺が収まるのを見ると、斎藤実盛は「皆の本心を知るための策」と、真意を明かします。一丸となった平家軍は木曾義仲との最後に決戦にのぞみます。勇猛な戦いの末、平家軍は華々しく散ったのでした。

俣野神社

■「俣野」は滅びず

「もはやこれまで」と敗死を覚悟した俣野五郎は、肌身離さず持っていた念持仏を、故郷に戻すよう下僕に託し、それが祀られているのが、俣野町の俣野観音堂と言われています。

平家に対する仁義を通した俣野五郎はこの時討ち死にし、俣野氏も没落したとされているのですが、どうもそうではありません。

俣野観音堂

遊行寺

のちに、その門前町が藤沢となる、時宗大本山清浄光寺。通称遊行寺は、源平合戦から約140年後の1325年に第四代の遊行上人、呑海が開いたとされます。その呑海の兄が、「俣野五郎」で、俣野五郎は遊行寺開山を全面的にバックアップした大壇越(パトロン)であったので、「俣野大権現」として、今でも遊行寺境内に祀られています。

単なる偶然とは思えません。俣野五郎景久の家系は、代々五郎を襲名し、巨大寺院の基礎を作るほどの権力、財力を保っていたのでしょう。
頼朝に反逆していながら、鎌倉にほど近い俣野の地で、鎌倉時代を通じて無事勢力を保てたのはなぜなのか。なぜ遊行僧と結びついたのか、など、俣野一族には興味は尽きません。

遊行寺の塔頭、長生院に伝わる小栗判官伝説には、俣野地区の支配者「横山大膳」という人物が登場します。悪役なのですが、その巨大な力は、俣野地区を固く支配した、実在の俣野一族を彷彿とさせるのです。

○俣野観音堂