戸塚宿を行く

戸塚駅西口 11ブロックからなる絆体験ゾーン"戸塚パルソ"

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戸塚パルソ通信@メール 第73号

戸塚宿を行く(歴史探訪)

vol.032-1

昭和の熱気を象徴する娯楽の殿堂戸塚競馬場(1)

昭和初期から戦後にかけて、戸塚には競馬場が存在しました。
大正期まで神奈川県内には地方競馬場が8つも乱立していました。地方競馬規則が昭和2年(1927年)に交付され、その後の改正を経て、神奈川県内の競馬場は2箇所に制限されることになります。そのため従来の競馬場が廃止され、新たに川崎と戸塚が競馬場の所在地に選定されることになりました。

最初に戸塚競馬場が開場したのは昭和8年(1933年)の11月。

敷地面積は三万七千坪あまり。場所は戸塚町吉田で、現在の日立製作所や東戸塚小学校のあたりとされています。

大正期まで、競馬は一部を除いて賭けることはできず、娯楽としてはあまりパッとしないものだっと言います。
しかし旧競馬法の制定により、勝馬投票券の発行が合法化されると人気が爆発。戸塚競馬場も例に漏れずに大勢の見物客を集めます。場内は出入り自由だったため、それらを目当てにしたおでんや饅頭を売る店が繁盛したほか、競走馬に飲ませる滋養強壮剤を商う薬局が大いに潤ったと言います。
1開催ごとの馬券の売上は60万から90万くらいであったとされ、人気が沸騰した昭和14年には100万円を超える日もあったとか。当時、馬券は一枚一円だったとか。一枚を現在の一口=100円とすれば、当時の100万は現在の1億円になるでしょうか。ついには皇族の賀陽宮の台臨まで得る大盛り上がりとなりました。
鉄道を利用する見物客も多く、戸塚駅が大混雑したため、昭和12年(1937年)には、東口が開設されることになりました。

ちなみに、現在、柏尾川にかかる橋のひとつ、駒立橋は、東海道沿いにあった厩舎から、戸塚競馬場に馬を渡す橋であったことから、その名がついたとのこと。 

大いに活況を呈した戸塚競馬場ですが、太平洋戦争の始まる前年、昭和15年(1940年)2月に「軍用鍛錬馬場」と改名し、競馬も「鍛錬競争」と呼ばれるようになります。内容的には競馬と変わることなく、売上はなんと860万を記録、その活気は衰え知らずでした。 しかし、戦況が悪化し始める昭和17年(1942年)、戸塚競馬場は、吉田から汲沢へ移転することになるのです。

○戸塚競馬跡地(日立製作所)

参考文献:「ふるさと戸塚」編集:郷土戸塚区歴史の会 発行:戸塚区老人クラブ連合会
     「戸塚の歴史」大橋俊雄
     「戸塚区史区制50周年記念」戸塚区史刊行委員会

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