戸塚宿を行く(歴史探訪)

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戸塚パルソ通信@メール 第74号

戸塚宿を行く(歴史探訪)

vol.032-2

昭和の熱気を象徴する娯楽の殿堂戸塚競馬場(2)

※汲沢団地と戸塚高校

昭和8年に開場し、爆発的な人気を誇った戸塚競馬場。中国での戦争が泥沼化する状況下、軍用鍛錬場と名を改めますが、その人気は衰えることを知りません。
やがて日米開戦。吉田町の軍用鍛錬場(戸塚競馬場)は、汲沢へ移転します。
今回、汲沢への移転理由はよくわかりませんでした。ただ、交通の便の良い吉田町から、駅から直線距離で2km以上離れた汲沢への移転は、実質的な競馬の禁止のように思えます。戦時下に奢侈風俗がタブー視されている中、軍の関連施設でギャンブルが行われることが問題視されたのかもしれません。

汲沢の戸塚競馬場で競馬が再開されるのは敗戦後の昭和21年8月17日。敗戦丸一年が経つのを待ちかねたように、再び戸塚に駿馬のいななきが轟いたのです。

ところが、昭和23年7月13日に、GHQの勧告により競馬法が改正され、競馬場の公営化が義務付けられます。
馬匹組合連合会が運営していた戸塚競馬場も、県または市に委託されることが検討されましたが、昭和25年に川崎競馬場が新規開業することが決まっていたため、戸塚競馬場は、川崎競馬場に引き継ぐという形で、閉場が決まります。

昭和25年10月の県営競馬を最後に、大いに隆盛を誇った戸塚競馬場はその歴史を閉じます。
昭和46年からは、川崎競馬場で、戸塚競馬場の偉業を偲ぶ「戸塚記念」が開催されています。

※イメージ写真

汲沢の戸塚競馬場跡地は、戸塚高校と汲沢団地の敷地になったとされています。すりばち状の天然の地形を生かしたスタンドが設置されていたと言いますが、現在では開発のため、その名残を感じることは難しくなっています。

しかし、汲沢団地内の道路の緩やかなカーブは、そこに馬場があった名残のように思えてきてしまうのです。

※右が戸塚高校敷地。この段上に観覧席があったとされる。

※戸塚高校。

すっかり姿を消した戸塚競馬場ですが、わずかな名残を戸塚の街中に見ることができます。
海藏院です。
戸塚競馬場の正式な廃止が県議会で決議されたのが、昭和29年12月。その後、戸塚競馬場の設備が民間に払い下げられました。
この時、海藏院は、大谷石400枚の払い下げを受け、山門前の石段として生まれ変わらせます。
海藏院の参道は、戸塚競馬場が、確かに戸塚に存在したことを今に伝えているのです。

※海藏院参道石段工事の様子。払い下げられた大谷石は、戸塚競馬場から、檀家自らが総出で運んできた。

※現在の海藏院山門

○戸塚競馬跡地(戸塚高校)

参考文献:「ふるさと戸塚」編集:郷土戸塚区歴史の会 発行:戸塚区老人クラブ連合会
     「戸塚の歴史」大橋俊雄
     「戸塚区史区制50周年記念」戸塚区史刊行委員会