戸塚パルソ通信@メール 第93号
戸塚宿を行く(歴史探訪)
vol039-1
平安時代の万能の天才大江匡房と東嶺八幡(1)
大江匡房(百人一首)
( 大江匡房と東嶺八幡(2) ▶ )
●大江匡房
東嶺八幡の参道に、大江匡房の歌碑があります。江戸時代後期の戸塚の歌人、味岡露繡が建立したもので、東嶺八幡にある、八幡太郎義家が奥州下向の際に休憩したとされる「白旗の椎」との関連と思われます。
大江匡房は、平安時代後期の貴族で、学問の家として知られる大江氏の出身です。後三条・白河・堀河の三代の天皇に使えて功績があり、大江氏としては半世紀ぶりの公卿(従三位以上の特に位の高い貴族)に昇進しました。
時代は藤原氏の摂関政治の全盛が過ぎ、 天皇親政から院政への移行期だったのも、大江匡房の出世にはプラスに働いたと思われます。
大江匡房は子供の頃から神童として知られ、藤原頼通が平等院建立にあたり、子供だった匡房に助言を求めたり、一夜で法華経を暗記したなどの逸話が伝えられています。
和歌では、小倉百人一首の七十三に「高砂の尾の上のさくら咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ(権中納言匡房)」が取り上げられているほか、勅撰和歌集に100首以上採録されている、平安後期きっての歌人でした。
和歌のほか、漢詩にも造詣が深く、匡房が太宰府に赴任している時、漢詩を作ったところ、天神様となった菅原道真が喜んで不思議な現象を起こした、という逸話があります。
さらに大江匡房は「闘戦経」という、兵法書も著していると伝わります。「闘戦経は孫子と表裏す」といわれ、具体的な用兵術を述べる「孫子」に対して、戦争での思想や精神性を説くものとなっています。
八幡太郎義家が大江匡房に兵法指南を受けたという記録があり、義家の様々な逸話のうち「飛ぶ鳥の隊列の乱れを見て、伏兵を見破った」というのは、大江匡房に教授されたものとされています。
大江匡房歌碑
次回は歌碑と東嶺八幡境内を紹介します。