戸塚宿を行く(歴史探訪)

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戸塚パルソ通信@メール 第75号

戸塚宿を行く(歴史探訪)

vol.033-1

境川沿い固有の謎の神社群源義朝とサバ神社-1

※中之宮左馬神社

泉区を中心に「サバ」という音にちなんだ神社群があります。全国でも境川周辺にしかないという「サバ神社」の謎に迫ります。

◯「サバ」神社とは

「サバ神社」のサバは「鯖」「左馬」「佐波」「佐婆」などの字が当てられています。かつて「サバ」と呼ばれていたものの、地名などに由来する神社名に変わったものを含めて、全部で十二社あると言われています。
共通点は、祭神が源義朝であること。そして、創建年代のわかる神社が非常に少ないという特徴もあります。
また、サバ神社を七社巡るとご利益があるという「七サバめぐり」という風習があったとされます。特に疱瘡、麻疹(はしか)、百日咳などの悪疫予防のご利益があるとのことです。麻疹の流行が心配されている今日この頃、サバ神社にお参りされてはいかがでしょうか。

※様々な「サバ」神社

◯御祭神・源義朝とはどんな人物?

源義朝:保安四年(西暦1123年)〜平治二年(西暦1160年)
鎌倉幕府を開いた源頼朝や、戦上手で名高い源義経の父として有名です。
源為義の長男として生まれますが、早くから父・為義と袂を分かち、鎌倉を中心に東国で勢力を伸ばします。(元々の源氏の根拠地は河内地方)
その実力を買われて下野守に任じられ、京都でも発言力を持つようになります。
一方、為義は、四男の義賢を関東に派遣し、義朝1強の状況を打破しようとしますが、逆に小競り合いの末、義賢が戦死してしまいます。

『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討(一部)」

これは、京都の朝廷内の派閥が真っ二つに分かれており、為義と義朝が敵対する派閥にそれぞれ接近していたためです。
この朝廷の派閥抗争は、ついに保元元年(西暦1156年)7月、保元の乱となって火を吹きます。
保元の乱では、後白河天皇、藤原信西らが、平清盛らとともに、崇徳上皇、藤原頼長らを撃破します。
義朝は後白河天皇側に立ち、その勝利に大きく貢献します。
その論功行賞で、義朝は左馬頭を受任し、当時の武家としては最高レベルの地位につきます。
乱後、今度は藤原信西と藤原信頼の対立が激化。義朝は、武蔵守を務めた信頼と古くから関係が深く、彼とともに挙兵します。
平治元年(西暦1159年)の平治の乱です。

『平治物語絵巻(一部)』※一番奥が義朝

電撃作戦で藤原信西を討った義朝は、信頼より播磨守の地位をあたえられます。しかし平清盛の逆襲にあい、敗北。義朝は家臣の縁者である長田忠致を頼り落ち延びますが、長田忠致の裏切りにあい、謀殺されてしまいます。
一説には、風呂に入っている時に刺客に襲われたとされ、「せめて木太刀一本あればむざむざと討たれはしなかったろうに」という言葉を残したと言われます。 そのため、義朝の墓には、小太刀を備えるとご利益があるという伝説が生まれました。

○主なサバ神社

次回は「サバ」の由来を検証します。