戸塚パルソ通信@メール 第98号
戸塚宿を行く(歴史探訪)
vol041-01
北条から徳川へ 関東の覇者と綱渡りの攻防石巻五太夫(1)
五太夫橋の架かる舞岡川 江戸方見附のすぐそばにかかる「五太夫橋」。その名を残す石巻五太夫こと石巻康敬に迫ります。
●石巻五太夫
舞岡川にかかる五太夫橋には、次のような解説が掲示されています。
「石巻五太夫は小田原北条氏の家臣だったが、北条氏滅亡後は中田村で謹慎していた。徳川家康が江戸に入る時にこの橋で出迎えたため、五太夫橋と呼ばれるようになった」
石巻家は小田原北条氏には五太夫の父の時代から仕えており、資料には初代北条早雲の時代から名前があるといういわば股肱の臣の家柄。
康敬の父の家貞の記録は実に40年以上にわたると言います。
小姓から使えていたとしても長命すぎるので、二代分の事績が混同されたり、父子同名だった可能性もありますが、それはさておき、通常、新領主を迎える役目をはたすのは、明け渡し側の家老レベルの者ですが、石巻家は十分それに相当する重臣だったと言えます。
五太夫橋の石碑と説明板
石巻五太夫の歴史への登場は、その少し前「名胡桃城事件」からです。
●名胡桃城事件
1590年、上州の真田昌幸の城であった名胡桃城を、北条氏が武力制圧した事件。
この時、戦国時代はすでに終盤で、豊臣秀吉による「惣無事令」が発令されていた。秀吉の了解なく勝手に軍事行動を起こしてはならないというもので、名目上秀吉と同盟関係であった北条氏も、それに従う建前があった。
それを破ったことになり、秀吉は激怒。北条氏は、弁明のための使者を送るが、豊臣方は事実上の当主であった北条氏政の上洛を要求。交渉は決裂し、小田原攻め・北条氏滅亡へと繋がる。
戦国時代の最終章の火蓋を切った事件といえる。
この時、北条側の使者として大阪に向かったのが、石巻五太夫です。
彼は、交渉が不調に終わった帰路、駿河で拘束されてしまいます。ということは、既にこの時点で徳川と接点があったことになりますので、五太夫橋での出迎えの時には、家康とは面識はともかく、知見はあったのではないでしょうか。
石巻五太夫は兄の康雄が板部岡家に養子に入っており、大河ドラマ真田丸では重要な役割を果たしていた板部岡江雪斎の養父です。
北条氏の外交の重鎮であった板部岡江雪斎も、北条氏滅亡後は徳川家に仕えているあたり、この一連の流れに、徳川と、石巻・板部岡の連携を想像することは、あながち荒唐無稽ではないかもしれません。
・五太夫橋