戸塚パルソ通信@メール 第99号
戸塚宿を行く(歴史探訪)
vol041-02
北条から徳川へ 関東の覇者と綱渡りの攻防石巻五太夫(2)
戦国時代を通じて、徳川家と北条家、そして石巻家の不思議な関わり 五太夫の知行となった中田村の中田寺
●石巻家の出自
石巻五太夫の出身である石巻家。とっさに東北の石巻を思い浮かべる人が多いと思いますが、東北出身ではありません。
五太夫の石巻家は、三河国八名郡石巻が発祥とされています。小さな領地を守る、土豪や国人と言われる勢力だったと考えられています。
その石巻家が、伊勢盛時(いわゆる北条早雲)の配下となったのが16世紀初めで、その後、小田原市の飯田岡を本拠地としました。
小田原北条氏の歴代の当主のそば近くに使える馬廻衆・奉行人・奉公衆などを務める重臣だったのは、前回のとおり。
講談では、北条早雲は、五人の仲間と「一番最初に出世したものを大名として皆が支えよう」と誓ったという、三国志のようなエピソードがありますが、石巻家の始祖は、その仲間のような位置にいたのかもしれません。
『小田原城下図屏風』馬の博物館蔵
石巻下野守康敬
石巻家は代々下野守を名乗ったものが、当主だったと考えられています。五太夫こと石巻康敬が下野守を名乗ったのは、天正7年(1579)あたり、40代半ばだったと思われます。
当主になるには比較的遅い年齢ですが、兄が亡くなったことによるリリーフ登板だったのではないでしょうか。
天正10年(1582)、本能寺の変が起こった年には、五太夫は上州の館林城を守備しており、信濃や越後からの進入に備えています。
前回触れた名胡桃城事件の舞台は上州です。
詳しい資料はありませんが、名胡桃城事件の現場にいたとすれば、五太夫は北条氏の重臣として弁明に向かったのみならず、「事件の当事者」として呼ばれたのかもしれません。
結局、交渉が決裂して秀吉の小田原攻めを引き起こしたのですから、五太夫は小田原に戻れば切腹ものです。
五太夫にとって、沼津で徳川家に拘束されたのは、逆に幸運であったとすら言えるでしょう。
小田原攻めが終了すると、徳川家康は、五太夫を中田村に蟄居させます。さらに、自身の江戸転封が決まると、五太夫を召し出し、中田村を知行とする旗本に取り立てます。
実に温情溢れる扱いだと思いますが、どんな功績が、家康に、五太夫へ温情をかけさせたのでしょうか?
最近の研究で、徳川家康の出自である三河松平氏は、北条早雲の出自である備中伊勢氏の、三河における被官だった可能性が出てきています。
三河出自の石巻家が、小田原北条氏の重臣となる過程に、松平氏が関わっていた可能性や、ただの仕官斡旋ではなく、いわゆる「草の者」として松平家が伊勢家に送り込んだのが、石巻の者だった、、などという考えは時代小説すぎるでしょうか。
「草の者」は、「その時」が来るまでは何世代にも渡って、潜伏先の大忠臣として励み、ひたすら「その時」を待つとされています。
豊橋市石巻山(かつての八名郡石巻村の語源とされる)
参考文献「とみづか39号」戸塚歴史の会